らららんど

とをり / 上蔀良来の趣味のブログです。

日記

 

なにか書こうと思ったんだけど忘れちゃった。

 

一日の時間が二倍になってほしい。心情を誰かと共有したい気持ちも特にない、芸術関係の人物らしからぬ性質の人間なので、文章に人間らしい事情とか心情をしたためようとすると変に味気なくなってしまうか、もしくはものすごく見栄えの悪いめちゃくちゃな分量の料理みたいなことになってしまうので、そういう気持ちが芽生えても、いつからか自分を抑えるようになった気がする。急に何の話。「自分は醜い」という意識が小学生くらいの頃から生まれてから、それは二十三歳になった現在まで、その存在感を日々増し続けてた。逆噴射的に、半分実験みたいに、自分のことをバーっと書きたくなることもあるけど。いや逆にそれ、ものすごいナルシストなのかも。

 

俺みたいな人間をスキゾイドっていうらしい。

大気みたいな存在になってみんなを包み込みたい、とかわけわからんことをちょうどハタチくらいのときに本気で思っていたんだけど、こういうのが、ザ・スキゾイド気質らしい。いまでもそんな風に思っているかというと、よく分かんない。さいきんはもっと、「地球好きだなー」とか、そういうちょっとだけ現実的な、ふわふわしたことを考えるようになった気がする。良くも悪くも。

自分の特定の状態や現象に名前を付けることで安心感を覚えてしまうありきたりさに、我ながら滑稽滑稽、と思いつつ、別にその性質のせいで人生が悪くなってしまったとか、そういうことも別に感じず、「俺は黄色人種なんだよな」くらいの当然な受け止め方をしている。謎の冷静さ。俺は高機能自閉症の気もあって、ほかにもたぶん付けようと思えばいくらでも診断名が付くと思う。鬱病とか。ただ、それも結局「俺は東北人なんだよな」くらいの当然な受け止め方をしたっきりで、だから良かったんだとも、悪かったんだともあんまり思わなかった。

 

でも、さいきんになって、良くも悪くも「俺は、人より発達がだいぶ遅かったかもしれない」と振り返ることが多くなってきた。自閉スペクトラム的な人生や社会、人間関係に対して受動的すぎる部分と、同時に虚無的だったり反抗的な内側の部分、そういう自分の一般的と言い難い型に気づくのが、かなり遅くなってしまった。これから、まだまだその対処法を練って、知恵を凝らして、自分のために実践して生きていかないといけない。

こんなこと考えても仕方ないけど、もっと早いうちからまっとうに精神や心や意思が発達していたとしたら、自分がこういう人間なんだと気づいてたら、いまごろ、どんだけ充実した生き方が出来ていたんだろうな。とにかく、勉強がしたかった。暇になって絶望すると、わりとそればっかり考えてしまう。もし精神と時の部屋があったら、好きな本をたくさん読みたい。数学の勉強をして、世界史を学んで、政治とか、法律とか、医学とか、物理の勉強もしたい。辞書を読破したい。ちょっと将棋もしたい。

いまの自分の発達状況は、たぶん、大人っぽい高校生とか、大学の新入生と同じくらいだと思う。いまになって、やっと社会とか、人間らしい自己実現の願望が育ってきたんだから、なんかもう、どうしようもない。

 

そのなかの、ひとつのかたちが音楽だった。

 

ずっと同じ制作物に向き合ったりしていると、ときどき、唯一の拠り所の気がしている創作行為でさえも、自分の手から産み落とされたのであればどうしようもなく醜く、汚いんじゃないかという想像がふと脳裏に過ってしまって、しようがないことがある。自分の存在そのものが醜くて、どうしようもないのなら、もうどんなふうに生きても無駄なんじゃないか、という感覚が、心の深いところでずーっと鳴っている感じ。いままでそこそこ怠惰に、そういう自分に向き合ってきたつもりではあったけど、決定的に変えるには至っていない。というか、ちゃんと変えようと思ってなかった気もする。

どれだけ頑張っても醜いのはまだ辛うじて耐えられそうだけれど、作ったものが醜い、ということは個人的にちょっと苦痛すぎて、耐え難そう。いまはまだ挑戦の最中だけど、もしダメだったら、それさえも醜いと分かったら、たぶん死ぬ。たぶん好きな人に愛だけ伝えて死ぬと思う。

 

 

俺はひとりでいるとき、ひとよりかなり自我が薄くなる方だと思う。

いわゆるスキゾイドのそういう性質が、創作で役に立ってきた側面が多少はあったりもした。ただ、逆に、人の中に立った瞬間に生まれる自我がものすごく気持ち悪いと感じてしまうことがあまりにも多くて、誰かに名前を覚えられたり、特定の印象を持たれることが気持ち悪くて、人間生活上厄介だった。とにかく、出来る限り、自分の姿を誰かに認識されたくない。

だからこそ完全に作為的であれる創作では、安心して自我を作品に持たせたり、存在しない何かになりきれるので、それが俺にとってはすごく嬉しかったり、楽しかったりするんだろうなと思う。

 

「23歳無職」という肩書きになってしばらく経ったけれど、さいきんになって、もう創作から離れて生きていく道がなくなってしまったような、エネルギーの体感みたいなものがある。人生の流れというか、どこかに向かうエネルギーみたいなものが、完全に音楽やその辺にチューニングされたような感じがする。いや、完全にではないのかもしれないけれど。鉢植えでよくのびた芽以外、さっぱり剪定してしまったような、もしくは根っこ状に、いろんな場所に行けたはずの道の分岐が、気づいたらぜんぶ通行止めになっていて、もうこっちに行くしかないみたいな。なんかむかしそんな絵本あったな。クイズに答えて、答えごとに違うページに進んで、結末が変わるやつ。いまは音楽を中心としたクリエイターとしての人生のルートの一本だけが、目の前に残った。とか言いつつ、やりたいことはたくさんあるし、そのどこまでが、この終わっている状況からでもちゃんと実現出来るのかにも、ちょっと興味はある。ただこれ以上、やることを増やすことはないとは思う。

 

終わってる人生なりに、残っている道に覚悟と信念を持たないと。これを捨てたら、俺は終わり。こういう危機感が、終わっている自分にしては珍しく、ちゃんとお腹の奥から響いている感じが今はあって、ちょっと面白いっていうか、嬉しい。人間らしくて。まあ、嬉しいと思ってる余裕も本来はないし、ちゃんとしてほしい。創作はもはや自分の存在そのものみたいになってくる。なんか、なにを言おうが喚こうが、死んでも変えてはいけないものがあるよね。この信念だけは、変えちゃいけないと思う。

お腹減った。オチなし。

 

 

  

音楽の勉強【001】

 

音楽の勉強

 

 

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イタリア、パレストリーナ

 

 

ja.wikipedia.org

 

非和声音(ノンコードトーン、ノンハーモニックトーン)、または和声外音とは、和音の構成音以外の全ての音。メロディを華やかに彩るための主要な音として用いられてきた。非和声音は多くの場合和声音に進行し、これを解決という。

 

(用語)

パレストリーナ様式・ジョバンニ・ダ・パレストリーナは、ポリフォニー音楽(複数の声部から成る音楽)を作っていた16世紀、ルネサンス後期(14〜16世紀に、ローマの古典古代文化の復興を目指した文芸復興運動)の音楽家パレストリーナを中心とするローマ礼拝堂に属する音楽家をローマ楽派とも言う。

パレストリーナ様式は、順次進行(白鍵でいう隣の音へと移行するメロディであり、3度以上移行するものは跳躍進行と呼ぶ)を主体とした美しいメロディの流れ、豊かな和音の連続による和声、厳格な対位法(独立した複数の旋律を重ね合わせる古典的技法)などが特徴と言われる。

四声体・ソプラノ、アルト、テノール、バスの4つの声部。

 

(感想)ルネサンスの意味を初めて知った。対位法は古い理論という印象が強いので興味はないが、話題に出たパレストリーナ様式の宗教音楽は聴いてみたい。

メロディにおける非和声音と解決の考え方は非常に重要で、音楽は非和声音から和声音、和声音から非和声音への移行解決)と、終始感を繰り返すことで成り立っていると思っている。素晴らしい音楽はこの二要素が凄まじく美しく、メロディの勉強はこの二要素の感性を磨くことにかかっていると言っても過言。そのほかの要素としては、(リズムとフレーズ)、構成(移行と終始の流れを1フレーズ、AメロBメロごと、曲全体という風にミクロ〜マクロでコントロールする)、歌詞(歌詞とメロディの相関性や歌詞技法)が挙げられると思う。まずはミクロから。

 

 

Wikipediaの記述は東京藝術大学で使用されていた教科書を元に進んでいくが、その教科書は現在では使用されていない。

以降、非和声音をNCT(ノンコードトーン)、あるNCTに対して、先行するコードトーンをCT1、解決するコードトーンをCT2と表記する。

 

途中

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国語の勉強【001】

 

 

国語の勉強 

203ページ

 

 

はしがき 〜 はじめに

 

著者の水野遼さんは、現在は法曹界に身を投ずることを決意して、法律の勉強をしている(2012年)。第二版の時点で、実務家の先生と関わり思考方法は受験生時代から実務家の方向へと変化している。

テストというのは、限られた資料しか参照出来ない代わりに60、70点が取れれば良く、それが良くて80、90点になるようなものだが、実社会では何を見ても誰に聞いても良いかわりに、間違うことは許されず、100点満点でなければならない

 

センター試験の現代文は、(特に小説は)もともとが解釈の余地を多分にはらむ題材であり、時に作問者の恣意的な解釈に乗っかることを要求される。(配点も高く博打性が大きい。)そんなもので満点を取る方法など存在しないと筆者は考えている。あくまで、わたしならこう読むというひとつのサジェスチョンと、選択肢が時にめちゃくちゃであるということをアイロニカルに示したいというのが本書の旨。また、現代文の点数が伸び悩むというのはよく聞くが、問題文が悪い事がほとんどであるとも考えている。

 

しかしだからと言って放棄していいというものでもなく、正しい日本語の読解や表現という社会生活最低限のスキルも磨かない前に英語や数学漬けになるのは、ナンセンス極まりないという。

ただし新たに第二版を書くにあたって説いてみて、作問者の作問能力の劣化が著しく感じられ、こんなものがバカロレアやSATと肩を並べるセンター試験なのかと唖然とさせられたとも語る。主な理由は前述の通り。

 

 

(感想)個人的に普段、よく考えることとのひとつに、日本を牛耳るお爺ちゃんたち(一部の法曹、研究者、大企業の上層部)の論理能力の怪しさ があった。若い子の論理能力が優れているとも特段思わないのだけれど、こういう現行の権威(であるお爺ちゃんたち)が堂々と提示してくるものに、サラッと修正(注・批判ではない)を入れられる論理性、もしくはそういう学問 が若い子たちのあいだに成立するといいな、と常々思ったりする。

 

よくTwitterYoutubeのコメント欄の世界で繰り広げられるレスバでは、そういう全員共通の指標がないから、感情論でも説得性や共感性があれば罷り通ってしまう場面が多い。議論ではそういう柔らかさは廃して(議論にも様々なスケールや目的があるけれど)判断出来る論理能力と国語力の養成は、現行の権威に良いように騙されないためにも 必須なんじゃないかと思ってる。

 

あと、ゆくゆくは、そういう確固たる議論の指標を持ったAIが政治に参入してくれたら嬉しい。

 

 

 

本文全体を見据えて説く。

選択肢に迷った場合の処理の仕方はセンター試験においては鍵を握る。

 

よく言われる消去法には弱点があり、ひとつは早い段階で正解を除外してしまうリスク

もう一つは、選択肢を絞った後の決定打が見つからないことの多さ

センター試験では、本文には矛盾しないものの必須語句や説明がない誤答パターンが散見されるが、このような他力本願な受動的解決法よりも、記述式と近い回答過程をある程度辿っていきたい。 

 

❶ 意見を聞く前に参照元(本文)を読み、論点(傍線部)でしばらく読んでから、問いを見る。

余計な先入観を入れない。

 

❷ 問いに対し、自分なりに解答する。

慣れてくると採点基準のようなものが分かってくる。

 

❸ 選択肢を見て、自分のイメージしたものに最もよく馴染むものを選ぶ。

 

 

途中